歴史人物をゆるーくまとめた【日本史memo】

日本史学科卒の30代が日本史、日本美術などをメモしたブログです。岩佐又兵衛が特に好き

山あり谷ありの人生を歩んだ江戸時代の絵師【岩佐又兵衛】の【生涯】【荒木村重】についてメモ

私が最も大好きな歴史上の人物、岩佐又兵衛


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画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/岩佐又兵衛

 

岩佐又兵衛織田信長の家臣・荒木村重の子供とされ、父・荒木村重織田信長に謀反を起こしたことによって山あり谷ありの人生を歩むこととなりました。

 

そんな山あり谷ありの人生が彼の作品には反映されていて…彼の人生を知ると作品をより楽しくみることができますよ~。

 

おすすめの作品は「山中常盤物語絵巻」と「洛外洛外図舟木本」。どちらも有名な作品ですので、知ってる人も多いかな!

 

 

 

 

この記事で

 

をメモしていきます。

  

岩佐又兵衛の生い立ち

岩佐又兵衛は1578年(江戸時代初期)に誕生しました。出身地は現在の兵庫県伊丹市。そこにあった有岡城で生まれます。

 

 

お父さんの荒木村重が主君・織田信長を裏切る

お父さんは荒木村重という人物とされ、父の荒木村重は当時、尾張国美濃国を支配し、天下統一を目指していた織田信長の家臣として仕えていました。


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画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/荒木村重

 

 

天下人を目指す武将として歩み始めイケイケドンドンな織田信長に仕えていた父・荒木村重ですが、岩佐又兵衛が生まれた翌年、なんと主君・織田信長に対し反逆を計画したのです。(簡単にいうと裏切ろうとした)

 

なぜ裏切った?

1578年7月、父の荒木村重織田軍と別所氏との戦いである三木合戦に、織田信長方の羽柴軍(後の豊臣秀吉)とともに参戦していました。

 

しかし、突然、父・荒木村重は戦場から姿を消し有岡城へと帰っていったのです。勝手に戦場から離れ城へと帰ってしまったため裏切り行為とみなされることとなりました。

 

なぜ父の荒木村重が主君・織田信長を裏切ったのか、はっきりとした理由は分かっていませんが、織田信長の部下に対する乱暴な性格や言動にウンザリし、裏切ったと考えられています。

 

有岡城の戦い

部下から裏切られたことを知った織田信長は、とりあえず明智光秀などを荒木村重のいる有岡城へと派遣し説得させようと試みました。

 

明智光秀らの説得の結果、荒木村重織田信長のいる安土城へと謝りに行こうとします。

 

しかし、その道中、中川清秀から「今、安土城に行って謝っても切腹を命じられるだけだ。それなら織田信長と戦いをしたらどうだ。」と言われ、荒木村重は納得し、安土城へは行かず有岡城へと帰っていきました。

 

有岡城へと帰っていった荒木村重の行為は確実な裏切りと捉えられ、ついに織田信長は、裏切った荒木村重をやっつけるぞ!と戦を始めました。

 

父・荒木村重は負け、残された一族は処刑される

この戦いは有岡城の戦いと呼ばれ、結果、荒木村重織田信長に負けてしまいます。

 

織田信長に負けた父・荒木村重はなんと妻や又兵衛を含む子供たち、また一族などを有岡城に置いて、1人逃げていったのです。

 

有岡城に残された者は約670人ほどいたとされますが、有岡城が落城すると残された者たちは処刑されることとなりました。

 

その中には又兵衛の母や兄妹たちもおり、鉄砲で殺害される、首をはねられる、火をつけられるなどとても悲惨な処刑となったとされています。

 

救出された岩佐又兵衛

幸いにも、2歳の又兵衛は有岡城が落城する寸前、乳母によって救出され処刑は免れました。

 

家族や一族を見殺しにした父・荒木村重は逃げ回った後、茶人として大活躍することとなるのですが……

 

めちゃくちゃ酷い父親ですよね…('_')

 

 

「岩佐」を名乗る

有岡城から救出された又兵衛は乳母とともに、京都の本願寺で保護されることとなりました。

 

成人し、大人になった又兵衛は、母方の「岩佐」という姓を名乗るようになります。

 

そりゃ、家族・一族を見殺しにした父親の姓を名乗ってちゃ身の危険を感じますよね…。

 

織田信長の息子・織田信雄に仕える

大人になった又兵衛はなんと織田信長の息子である織田信雄に小姓として仕え始めます。(小姓とは身の回りのお世話をする人です)

 

え!え!父親が裏切った織田信長の息子に仕えるの!?どういう神経?どういう気持ちでお世話してたの?!めちゃくちゃ気になります…

 

絵師として活躍

織田信雄に仕えた又兵衛ですが、1590年、小田原城攻めの後、豊臣秀吉から嫌われた織田信雄が改易を受けたため、主君を失い無職となります。

 

無職となった又兵衛は「勝以」と名乗り、京都で絵師として活動を始めました。

 

洛中洛外図屏風舟木本」を完成させる

絵師として活躍し始めた又兵衛は京都在住中に京都の街を描いた洛中洛外図屏風舟木本」を完成させたとされています。国宝に指定されている作品で、東京国立博物館に所蔵されています。

 

本当に素晴らしい作品なので、是非見てもらいたいです。



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画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/洛中洛外図

 

北の庄へ移り住む

京都で活動していた又兵衛でしたが、40歳の頃、福井の藩主・松平忠直に「北の庄(現在の福井県)にこないか。」と誘われ、北の庄に移ります。

 

その後、藩主が松平忠昌に変わっても約20年ほど、北の庄に留まり続けました。

 

 

江戸に移り住む

1637年、又兵衛は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠から「江戸にこないか」と誘われます。

 

当時、江戸城の大奥には荒木一族の生き残りである荒木局がおりました。

 

この荒木局が又兵衛を江戸に呼んだのではと考えられています。

 

江戸に移り住んだ又兵衛はすぐさま江戸幕府3代将軍・徳川家光の娘・千代姫の婚礼道具の製作を命じられ、製作に励みます。

 

完成したこの婚礼道具の品々は「初音の調度」と呼ばれ、国宝に指定されています。愛知県の徳川美術館に所蔵されていますよ。

 

 

73歳で亡くなる

その後、20年ほど江戸で暮らした又兵衛は、1650年、73歳で亡くなりました。

 

簡単まとめ


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岩佐又兵衛の生涯を時系列で簡単にまとめ

 

  1. 出身は現在の兵庫県
  2. 父親は織田信長の家臣・荒木村重
  3. 父・荒木村重織田信長を裏切り、戦をするも負ける(有岡城の戦い)
  4. 荒木一族は皆殺しに、岩佐又兵衛は救出され京都に
  5. 織田信雄に仕える
  6. 京都で絵師として活躍
  7. 40歳で福井に移り住む
  8. 徳川秀忠に誘われ江戸に移り住む
  9. 73歳で亡くなる

 

数え年2歳で、父親が主君を裏切り戦に。

そんな父親は敗北を目前に家族、一族を残して1人逃げ、後に茶人として活躍。

残された家族、一族はみな処刑される。その処刑はとても惨いものだったとされています。

幸いにも又兵衛は乳母と共に京都へと、逃げることができ処刑を免れました。

 

その後は絵師として活躍していく又兵衛…こんな可哀そうな人生ありますか?!(´;ω;`)

 

荒木村重、父親失格です…。家族、一族が処刑されたことはもちろん知っているでしょう。しかし、その後、荒木村重は茶人として活躍、千利休の弟子になります。

 

家族を皆殺しにした父親が同じ文化人として活躍していたことを又兵衛は知っていたのでしょうか…。本当に可哀そう…(´;ω;`)

 

岩佐又兵衛が登場する作品